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百年祭記念誌と新明誌

こんにちは。

しょうしゅうです。

教師会にて「新明誌を来年の元旦祭には発刊して頂きたい」という要望を受けました。

考えてみれば、昨年の百年祭にて百年祭記念誌なるものが発行され、
「新明誌の立場とは…」と悩んでいたのです。

様々考えさせられる部分もありますが、そのような要望はとても勇気づけられ、これから元旦祭にむけて、丹精していこうと思います。

〓しょうしゅう〓

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2013.09.21 | | Comments(0) | Trackback(0) | ひとりごと

来月の十五日会発行用言念導

こんにちは。
しょうしゅうです。

先日の言念導は少々読みづらかったかもしれません。

もうしわけありませんでした。

因みに十五日会用の言念導は約10分〜15分位で読み終えられるよう編集してあります。

先日もゆっくりと読んで頂いて15分位が理想だったのですが、結構早いペースで読まれてしまいました。

そして、今月の十五日会でお取り次ぎされた言念導は一枚のA4の紙に印刷されて、来月の十五日会に参拝された方々に配布されます。

その編集作業をするのが私の役目で、時に大幅に省略しなければA4に収まりません。

今回の言念導は私が編集した言念導なので、大幅に省略しても、何て事ないのです。

…というわけで、来月の十五日会に配布される予定のバージョンです。

新明『十五日会』記[平成二十五年九月号]

日本人は世界的にみて国土を愛する心が強いと思います。

温暖で雨の多い気候の恵みもあるのかもしれませんが、日本の国土は、世界のどの文明国よりも緑におおわれております。

それをひもとけば、日本人が原始の時代に感じた安全や快適という心情を森に感じるからこそ、日本の神社は森になるのであり、本来、森を必要としない仏教寺院やキリスト教会にも、日本人が森を持ち込んだのだと思います。

宗教において大切なのは教義であるいわれますが、教義以前に日々の生活があり、仏教の生活、キリスト教の生活、イスラム教の生活、それぞれの宗教で定められた生活があります。

新明国上教の生活においては、御先祖様・鎮守様、新明国上心様、また、先祖代々の人々が大切にしてきた心様の恵みを受けとめ、『感謝の心』を中心とした生活です。

「ありがとう」「おめでとう」「いただきます」というような生活的なものが日本人の心の奥深いところにあって、「神の恵み」を『感謝の心』でいただくという生活が、新明国上教会の根本であります。

その恵みの中核は、日の心様に恵まれ温暖で、水の心様にも恵まれ雨も多く、恵み多き日本の国土であり、その我々が住まう『阿合の心』の国土を神からの授かり物と感謝し、同時に人の親切も「有ること難し」恵みと感謝するという信仰生活が新明国上教会であり、その生活は、日本人、今や全人類の国土愛とともにあると思います。

新明国上教会の教義と聞かれれば、「何ごとも先祖鎮守の恵みとして『感謝の心』を捧げ、生活していく心の営み」です。

『足を運べよ、正直にすがれよ』

『特に一日・十五日に足を運ぶ(本部)と、不思議な守護がいく』

との教祖おや様のお言葉を守り、お参りなさるのがよいと思います。

新明国上教会の十五日会参拝会などに足を運び、言念導を聴き、教師と共に食べ物を食す、これで「ごちそうさま」というわけです。

以上

というわけで、本来ならば教師は信徒の方々と一緒に昼食を食すまでが参拝会や大祭だと思うのですが…

その当日の教師の方は帰ってしまいました。

しかも、知らないうちにいなくなっていました。

近年、信徒の方々と直会を行わず、早く家に帰ってしまう教師の方が増えてしまって、悲しいです。

〓しょうしゅう〓



2013.09.17 | | Comments(0) | Trackback(0) | 言念導

ひとりごと

道具の使用法について、最初は師匠より教えられます。

そして礼拝の作法や地鎮祭、上棟式など、様々な場面について教えられます。

ただ、よく考えてみると、基本は一番最初に教えられた時の心情が大切。

心情だけで十分です。

あとは崩れる事はないと思います。

崩れた礼拝や道具の使い方をしてしまう人に限って、「これが正解」だと思ってしまっている節があります。

いつ見ても、同じところを同じように間違えてしまっているのですが、これはどういう事なのか、自分ではよくわかりません。

きっと私の中にも、そのような部分がないとは言い切れないので、それが「行」なのでしょうね。

〓しょうしゅう〓

2013.09.16 | | Comments(0) | Trackback(0) | ひとりごと

台風

台風で傘が壊れました。

神殿の東側を通りときにへにゃってなりました。

ビニール傘だから多少は諦めもつきますが、もったいないなとも感じます。

この部分は取っておけば後々修理に使えるとか(笑

〓しょうしゅう〓

2013.09.16 | | Comments(0) | Trackback(0) | ひとりごと

十五日会言念導

平成二十五年九月十五日 十五日会 向井伝衆

 本日は御参詣ご苦労様でございます。
 言念導のお取り次ぎをさせていただきます。
 日本に住んでいて勝手に思っているだけかもしませんが、日本人は世界的にみて国土を愛する心が強いと思います。
 温暖で雨の多い気候の恵みもあるのかもしれませんが、日本の国土は、世界のどの文明国よりも緑におおわれております。
 全国土の三分の二が緑の面積として、努力され、維持されているという例を他の国に見出す事はできません。
 比較的新しい神社仏閣だとしても、いまや太古以来の神域では ないか感じてしまう時があります。
 もちろん、それぞれの神社仏閣に勤める方達の努力もありますが、それだけで、緑を育て、保つ事は容易ではありません。
 つまり、神域というものは、御祭神の鎮まる地にふさわしい  と感じる国民の心、それまで神域づくりに奉仕した人々の心、  さらにはこのような神域をすばらしいと感動した人々の心、また、その神域で開かれる縁日や七五三、初宮参りなど人生の節目に参詣したいと思う人々の心、そして、幼い頃その神域で愉快に遊んだ 思い出を感じた人々の心など、各種いりまじっていると思います。
 それをひもとけば、日本人の原始の時代に感じた安全や快適  という心情が、心の奥底に残っているのではないでしょうか。
 少し極端な話ですが、死後には土の中に骨を埋められたいと願うのも、本来は土葬される事を安楽と感じた人々の心情の名残りで はないかと思います。
 仏教は輪廻転生が説かれていて、本来はお墓を必要としない宗教 ですので、土中に埋葬するという行為は、神道式の葬式に、仏教のお経を加えたものです。
 神道を根にして、仏教やキリスト教が参入してきているケースは日本に多く見られますが、この国の土への安楽を感じる心は、僧であっても牧師であっても、神父であっても、心の根に抱いている のであろうと思います。
 そういう安全と快適の心情を森に感じるからこそ、日本の神社は森になるのであり、本来、森を必要としない仏教寺院やキリスト 教会にも、日本人が森を持ち込んだのだと思います。
 お寺に樹木が植えられ、森の教会で結婚式をあげたいと願うのは、よくある日本人の無宗教感のように言われたり、書かれたりしますが、日本人特有の心に、仏教やキリスト教や様々な宗教が参入してきただけのようです。
 ただし、キリスト教会によくあるステンド・グラスというのは、赤・黄色・緑と色とりどりで美しいと感じられますが、本来は、  木もれ日の信仰であり、キリスト教伝来以前のゲルマン人の神木 信仰を現代に伝えていると言われております。
 これは、古代ゲルマン信仰が日本人と同じように森の存在を根にもっていて、その上からキリスト教が参入しているのであり、森に安全や快適を感じるのは、世界中に存在するようです。
 ところで、誰しも食事をする時「いただきます」と言います。
 作法は仏式で合掌しますが、「合掌」は後世に付け加わったもので、食べ物を神の恵みと考えるから「いただく」という考え方や  言葉が先にあります。
 また、宗教において大切なのは教義であるいわれますが、宗教において大切なのは、教義以前に日々の生活であると思います。
 仏教の生活、キリスト教の生活、イスラム教の生活、それぞれの宗教で定められた生活があります。
 新明国上教の生活においては、御先祖様・鎮守様、新明国上心様、また、先祖代々の人々が大切にしてきた心様の恵みを受けとめ、『感謝の心』で、日々の生活を送っておられると思います。
『感謝の心』を中心とした生活です。
 人からの親切も「有ること難し」といって、目に見えない心様の恵みとするのが「有り難う」であります。
 また、一月一日には、初詣でをすましてから家族、親戚、友人らとの間で、「おめでとう」と言いますが、少し難しい話をすると、この「おめでとう」とは年頭にあたり来年一月一日までの一年間を「ことほぐ」事です。
 つまり「予め祝っておく」「予祝」というものです。
 そうする事により、言葉にたましいがこもり、実現するという 信仰から発せられた言葉であります。
 この一年間あなたにとってよい一年でありますようにという事で、コングラチュレーションではありません。
 また、何かの結果に対し、例えば「卒業おめでとう」等という  のは、その応用であるようです。
 考えてみますと、「ことほぎたい」という段階では結果がまだ  出ておりません。
 ですから「新年おめでとう」という言葉を発する事によって、  よい結果が得られると信じる信仰であります。
 その逆、悪しき言葉を発すると、悪い結果となる、ともよくいわれます。
 こちらの方が有名かもしれませんが、結婚式で祝辞を述べるものは「切れる」といえず、司会者は「閉会」といえません。
 新しい夫婦の縁が切れ、未来が閉ざされてしまう。
 悪しき言葉により悪しき結果になる、という信仰であり、その ため、生まれた言葉が「お開き」です。
 実は神道の結婚式のしきたりであったのですが、今やキリスト教で結婚式をあげている人達も、そのしきたりを守っているそうです。
 給食の時、手を合わせて「いただきます」というのは特定の宗教であるとして禁じる学校があると聞きますが、手を合わせるのが 仏教で、「いただきます」というのが神道ならば、すでに特定ではなく広範囲の宗教に関係するものであって、「神の恵みをいただく」という心情は、誰も押さえる事はできません。
 このような「ありがとう」「おめでとう」「いただきます」というような生活的なものが日本人の心の奥深いところにあって、「神の恵み」を『感謝の心』でいただくという生活が、新明国上教会の  根本であります。
 その恵みの中核は、日の心様に恵まれ温暖で、水の心様にも  恵まれ雨も多く、恵み多き日本の国土であり、その我々が住まう 『阿合の心』の国土を神からの授かり物と感謝するからこそ、神が国土をお生みになったという神話を我々の祖先が生み、そして語り伝えたのであると思います。
 人の親切を「神の恵み」として感謝するのは、太古のヨーロッパにもあると聞いております。
「メルシー」とか「グラッチェ」というのが、やはり人の親切を、キリスト教伝来以前から「神の恵み」と感謝してきた名残りなのであります。
 フランスやスペインにも、神による国生み神話があったかどうかはわかりませんが、あってもおかしくはないと思います。
 そこで、この国土に育つ森も動物も農作物も、神の恵みとして 感謝する。
 同時に人の親切も「有ること難し」恵みと感謝するという信仰 生活が新明国上教会であって、その生活は、日本人、今や全人類の国土愛とともにあると思います。
 新明国上教会の教義と聞かれれば、「何ごとも先祖鎮守の恵み として『感謝の心』を捧げ、生活していく心の営み」です。
 日本には八百万とされる多数の神々が宿るといわれます。
 太陽の恵みには日の心様、食べ物の恵み、それは火水の心様の 恵みであります。
 個々に感謝する時、したい時もありますが、
『足を運べよ、正直にすがれよ』
の教祖おや様のお言葉を守り、お参りなさるのがよいと思います。
 雷の多いシーズンに稲が開花し、実を結ぶため「稲光り」と   称して、雷を神と感謝したそうですが、結果的に「稲光り」がなくても、稲は稔った事でしょう。
 しかし、稲田に落雷した強烈なパワーを眼の前に見た昔の人々が、「神がいる」という「信仰の心」が宿るのは当然で、それが雷神  信仰になっていったのだと思います。
 しかし、このような信仰を日本人は、「日本人だけが持った」と独善的に考えないため、「わたしは特定の信仰を持ちません」と  などと斜に構えて答える人が多くなったのだと思います。
 しかし、「ありがとう」「いただきます」「おめでとう」いずれも、「メルシー」「グラッチェ」という語と同じように、外来諸宗教の語に淘汰されなかった、太古以来の信仰深き言葉であります。
 ここ日本では、特に「いただきます」という言葉は、神仏と共に食べ物を食すという行動が重要な宗教的行事であります。
 また、皇室が行う年中行事というのは、元をたどれば民を飢え させないための「食に関する」ものです。
 教祖おや様のお言葉には、
『特に一日・十五日に足を運ぶ(本部)と、不思議な守護がいく』
とございます。
 それこそ、仏教最古の聖典において戒律として挙げられていた ような、極めて簡単なものではございますが、十五日会に足を運び、言念導を聴き、断食はしないけれども、教師と共に食べ物を食す、これで「ごちそうさま」というわけです。
 簡単ではございますが、皆様の日常生活が『感謝の心』でより  よい生活となりますよう祈念致しまして、言念導のお取り次ぎと させていただきます。






ところまんざらスペースがあるのはWordの原稿をそのままコピペしたからです。

もうしわけない。

ところで、この文章は私が編集したとはいえ、お取り次ぎするのは他の教師の方だったので、

「多少難しくてもゆっくり読めば大丈夫ですんで…」

と…言っておいたのですが、どうやら人前に立って緊張してしまったようでした。

緊張していたのか、どうかは実際わかりませんが、意外に漢字を読み間違える場面に多々会います。

しかも、私が編集した言念導によくあります。

自分としてはそんなに難しい漢字を使っている気もないのですがね。

新聞や本、雑誌などを読んでいるはずです。

でもおそらく「読む」というより「見る」感覚で文章を認識しているのだなと思いました。

携帯やPCで変換してしまうから、今の若い人達は漢字が書けないとか言われますが、逆に文章を書く能力と読む能力などひっくるめた複合的な能力は若い人の方が高いように感じます。

〓しょうしゅう〓

2013.09.16 | | Comments(0) | Trackback(0) | 言念導

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佐藤昭衆

Author:佐藤昭衆
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